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旅は道連れ、世は情け。 アニメや漫画の話題やら諸々。デジモンが好きです。検索は避けてるよ。

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弱さとの和解

しばらくwin10で様子見るはずだったのに、多分どっかでうっかり肯定してしまっていて気付いたらwin11になってた。あの手この手でwin11にしようとしてくるのを、どうにかこうにか避けていたのに……!

win11、右クリックメニューからコピペなくなったんかと一瞬焦ったよ。あとは慣れるまでかなー。正直あんまり違いはわからない。ウィンドウが丸みを帯びているなぁとは思う。


キングオージャーくん、ビジュアルからずっとわかってたけどヤンマくんがだめです。大好き。てか、なんかすでに全員好きになる予感がしてる。面白さでちゃんと殴られるんだけど「この辺を殴りますよ」ってあらかじめ言ってくれる優しさを感じる。ただ思ってるよりも痛いからうずくまる羽目にはなるんだけど。ヤンマくんとシオカラくんはさ、あんなん駄目でしょ。殴られるとわかっていても「うっ!!」って呻いて膝ついた。

でもドンブラではずっとガンギまり戦闘やってたから、殴られるし痛いけどキングの優しさが染みる。ドンブラって野生の戦闘者って感じだったから。正統的な型がなくて、でも人を殺り慣れてる手練れとの闘いというか。ドンブラにはありとあらゆる方法で命を取られる直前までボッコボコにされてきたからなぁ。ほんと最後の方とか、日曜日の意識があんまりなかったもん。常に朦朧としてた。なんなら次の日まで引きずってた。

ボクシングとかもさ、警戒していないところからのパンチが一番効くって言うじゃないですか。ドンブラもそんな感じ。意識の外からフルスイングで何処かしらをぶん殴られてた。日曜日は全身が痣だらけ。なのに最高に楽しかったんだよな~。でも劇物って感じはする。過剰摂取は危険です。

ドンブラ中毒になって死ぬほどブログ更新してたからドンブラロスとかなるのかなぁーとか思ってたけど、案外そうでもなかったです。なんだろう、ドンブラって物語が完結しないんだなって思ったからかもしれない。テレビ放送は終わっても、なんかどっかで彼らの物語は続いているんだろうなーって思わされたといいますか。どう伝えればいいかわからないけど、物語がね、手に入らなかった気がする。

まだ映画があるからってのもあるけど、なんだろうね、私の手の中に彼らが収まることはないんだろうなって。自分の中の「このキャラはこう!」ってのが何一つ通用しなかったから。

解釈違いって言葉あるじゃないですか。あれってまぁ、そこそこ傲慢な言葉でもあるじゃない。つまりは「私が思ってたんと違う!」ってだけだからさ。究極的にね。私も言葉にはあんま出さないようにしてたけど、そういう心があったもの。「このキャラはこうだから、こうならないと駄目だ」みたいな心が。この無意識の心の動きを、ドンブラザーズに暴かれたんですよね。そんで多分、フィクションだけでじゃなくて現実の人間に対しても自分は「解釈違い」という概念を適用してたんだろうなぁって。それも無意識にね。

だからね、自分に対しても他人に対しても、もっと人間の弱さを面白がってもいいんじゃないかなって思ったんですよ。嗤うって意味じゃなくてさ、足りないからこそ面白いっていうか。本当に、デコボコだらけで構わないんだなって。ドンブラザーズ観てたらなんかひとつ、許されたような気持ちになったんですよね。足りない自分でいいし、足りない他人でいいんだなって。

人生を面白がるってのが感覚としてずっとわかんなかったんだけど、ドンブラザーズのお陰でちょっとだけ面白がり方がわかった気がしてさ。デジモンアドベンチャーも似てるんだけど、あっちは強制力がうっすらあるからなぁ。やらなきゃ結局誰かが死ぬから。そう考えるとマジで酷だよね。すげぇ世界観だ。

私の中でだからちょっと地続きではあるんですよね。デジモンアドベンチャーとドンブラザーズって。そのね、タケヒカで描いたのももしかするとタケルくんの解放だったかもしれないから。私がデジタルワールド好きすぎて、来世での解放になっちゃったけど。いや勿論デジモンアドベンチャー大好きだよ。デジモンと出会わなかったら、私は多分どっかで道間違えてるもん。

ドンブラザーズにはさ「好きに生きりゃ良いんだよ」って言われた感じがするんですよね。現代版ええじゃないかって感じ。縁が上手に結べなくても、汚名を着せられても、変わった生き方でも、何度間違えても、信じた愛が実らなくても。それでも善に生きてりゃ人生は祭だ、みたいなさ。最初から最後まで存在肯定の物語だったなって。

だからね、ほんっっとに大好きなんだよねぇ。

現代ってなんとなく否定の力のが強いじゃん。あれは嫌だ、これは駄目だ、こういう奴は許せない。なんかそういうの見かける方が多いからさ。そういうのに引っ張られて「みんな言ってるから自分も言っちゃおう」ってのが実際にあるじゃない。私も全然あるもん。

でもそういうのってさ、結局否定する側のがしんどいんだよね。だって人を否定したって、別に楽しい気持ちにはならないじゃない。その時はアドレナリン出ててもさ、しばらくすると不安になってこない?私はなる。だからその不安を消すために、また別のものを否定したり攻撃したりしちゃうんだよね。そうやって、すごい良くないループに嵌まっちゃう。そんで気付かない内に、自分をちょっとずつ嫌いになってっちゃう。

ただね、これ、許す許さないでもないんだよね。それよりもっと大きなところ。結局、人間そのものを愛せるかってことなんじゃないかな。もうね、みほちゃん獣人よ。人間は愚かで哀しいからこそ愛おしい。この感覚で、どうにかこうにか生きていきてぇなって思います。



強くなることはないです。
弱い自分に苦しむことが大事なことなんです。
人間は元々弱い生き物なんです。
それなのに、心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする。
強くなるということは鈍くなるということなんです。
痛みに鈍感になるということなんです。
自分の痛みに鈍感になると、人の痛みにも鈍感になる。
自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する。
痛みに鈍感になり優しさを失う。
いいんですよ、弱いまんまで。
自分の弱さと向き合い、それを大事になさい。
人間は弱いままでいいんですよ、いつまでも…。
弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい。
(いかりや長介)



人間が目指すべきは、あるいは最弱の生き物なのかも知れないね。弱くてもいいんだって価値観は、自分の中にずっとなかったもんなぁ。生きるためには強く在らなきゃいけないんだって漠然と思ってた。でも人間って所詮は人間でしかないんだよね。そうですよね、教授。僕ら人間、雲にはなれない。

人間の弱さ、できる限りで面白がっていきたいっすね。
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